ロサンゼルスでの死に方(前編)
その昔、
「アメリカなんて、絶対住まない!」
ま、住んであげてもいいけど、見聞のために。
と、公言していた気がする。
1)なぜ、私はロサンゼルスにいるのか?
米軍基地のある街で育った私は、戦時中に、帝国日本の第二次世界大戦の軍国主義で育った母の時代の軍国少女と反対のサヨクな少女であった。
その尻尾は、つい最近まで引きずっていて、ここ、ロサンゼルスに住んでるのは、私が産んだ子供たちの父親が、たまたまロサンゼルス生まれの日系アメリカ人だったから。と、自分に言い聞かせていたりした。
だから、アメリカに来ても、自分がここにずっといるとは思ってなかったのに。
のにのにのに。。。。
え?もう25年?嘘〜!
実は、こういう心の叫びを隠しながら、生きてます。(^◇^)
あれ〜?変だなぁ。5年くらいで、メキシコにまた戻る予定だったのになぁ。
言い訳すると、住んでいるのが、カリフォルニアであって、この間の大統領選挙の時に、真っ赤になった州ではなかったこと。
そして次に、北ではなくて、南カリフォルニアであったこと。
気候の良さは、人間をゆるくします。ゆるくなりたくない人は、南カリフォルニアに来てはイケマセン。
でも、何よりも、こんな私と飽きずに、耐え忍びながら付き合ってくれてるダーな様のおかげ。サンキュー、シェシェ、グラシアス。
写真:25年、近いのに行ったことなかったカタリナ島に行く。
2)このままだとロサンゼルスで死ぬ!
30年も一緒にいると、まあ、このまま、最後まで一緒に行くかぁ!(投げやり)という気分になっているので、自然と、死ぬ場所がロサンゼルスになる確率も高い。
「ロサンゼルスで死ぬって、どういうことだ?」
ある日、気がついて、自問した日から、すでに15年。
死に方=生き方。多分、そこから、私の死のデザインは始まったと思います。
91年の冬から25年。この間に、いろんな人の死に遭遇。
まずは、カービーのお母さん。
癌になって、パサデナの病院での手術中に亡くなった。
続いて、彼女の2度目の旦那さん。カービーの義理のお父さん。
それから、最近、売却され、日系コミュニティでも話題になった敬老ホームにいたカービーのおじいさん。
それから、カービーのおばさん。
そして、カービーのお兄さん。
親戚枠でいうと、もっといる。
最初に亡くなったカービーのお母さんは、とても社交的な優しい人で、家族を繋ぐ役目をしていたので、彼女が亡くなってから、親戚で集まることがあまりなくなった。あるお葬式で久々に親戚に会って食事をした後、パーキングで長い立ち話(なぜ、日本人や日系人は、別れる態勢に入ってからの立ち話が長いのか?)をして、別れる時に、誰かが言った。
「See you at next funeral! 」
じゃあ、また次のお葬式でね!
次、誰だよ?
カービーと私は、顔を見合わせて笑った。
亡くなった家族や親戚は、それぞれの家族に死ぬまで何らかの形で、ケアを受けながら、亡くなってます。ある意味、これを幸せな死と呼ぶのかも。
おじいさんは、日系2世で、唯一、カービーの家族の中で、日本語が話せた人でした。彼は敬老ホームで、何度かの危篤状態になった後、まだ生きてる間に、人工呼吸器を外すことを自ら選びました。90歳を越えてて、娘たちも先に亡くなってて、もうここでいいかなと思ったのかな?本人に聞いてないのでわからないけど。
敬老ホームには、他の親戚も入っていて、何度か訪問したことがある。
とても素晴らしい施設であった。日本人のスタッフもいて、日本語しか話せなくても、十分なケアが受けられそうだ。確かに、こんな施設を必要とする人はたくさんいるに違いない。
ただ、自分のことを考えると、ここは自分の居場所ではない。たとえ、自分が年老いても、私は、ここには属すことはできないし、選ばないだろうなというのが正直な感想。
じゃ、どうするよ?
写真;お隣は壁画アーティスト。死者の日の前のお仕事。
3)人の死を見て、自分の死を考える
在外日本人、特に、私たちのように、戦争が終わってから、高度経済成長期に入ってから渡米してきた、いわゆる「新一世」と呼ばれる人たちには、どんな死の選択があるのだろう?
それを考える時、私には、3つの人生が思い浮かぶ。
一つは、JALで、電話のオペレーターの仕事をしていた時のこと。
「関空便で、窓側の席に、紀伊半島が見える席を取りたいんです」
と、電話の向こうから、切実な女性の声が訴えるので、事情を聞くと、彼女の家族が、もう死の間際で、どうしても日本に帰って死にたい、その前に、日本の自分の生まれた場所を上空から見たいというものだった。
確か、年末か何かで、席が取りにくい時期だったと思う。それよりも、スーパーバイザーに相談した時に、問題になったのは、
「その人、死にかけてるの?」
死にそうな人を飛行機に乗せるかどうかという判断を、この場合、航空会社はしなければならない。とりあえず、医師の許可があればということで、収まったのだと思うが、このコールで、
「そこまでして、日本で死にたいという想いは何なんだろう?」
と、日本人であるということを、死に場所という観点から考えるようになった。
日本に、死にに帰って、またロサンゼルスに戻ってきた人に会ったこともある。
その人は、日系アメリカ人の最大のお祭りである、毎年夏にリトル東京で開催される二世ウイークのパレードの日に、都ホテルのロビーのカフェに座っていた、高知出身だという女性。癌になって、生まれ故郷の高知で余生を送ろうと帰ってみたけど、結局、居場所がなくて、またロサンゼルスに戻ってきたという。私は、ちょうど、多分、アニメのパレードか何かの担当で、ずっと側にいることが出来なかったけど、今でも、そのおばあちゃんのことを思い出す。
ロサンゼルスにも身寄りもない。もう随分前のことなので、彼女が今でも生きてるという可能性は少ない。
そういう身寄りのない人たちの最後を看取る仕事をされてる人がいるというのを知ったのは、日系のテレビ番組。確かそれもボランティアでされてたと思う。
亡くなる前の死の床で、身寄りのない方の話を聞く。
そのドキュメンタリーが流れていたのを見たのも、かなり前だけど、その方自身もリタイアされていた年齢だったと記憶するけど、まだやってらっしゃるのだろうか?
今、日本でも、孤独死が増えているらしい。人間は結局一人なんだと言っても、自分が死ぬ時のことや、自分の家族のことを考えると、誰かに看取られて欲しいなと思うのは、人情というもの。
ロサンゼルスでどう死ぬか。これを今年になって、また新たに考え始めたのは、売却された敬老ホームが、その売却したことで入ってきたお金を、助成金(グラント)として、在宅ケアを受ける65歳以上のシニア向けのプロジェクトやサービスをするコミュニティの非営利団体にオファーすることになって、私の関わる団体も、そのグラントに申請することになったからだ。
どういう死に方をするか?
というとこで、時間になりました〜!
ゲスト、今日は3組くるので、掃除しなくちゃ!
写真:ロサンゼルス郊外に大きな土地を買った友人。パイオニアツアー。
次のポストの内容は。。。
4)自分が住みたいコミュニティを作る
の予定です。